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EMI

Author:EMI
4人の子どもの母で、ステップファミリーです。

これまでの子育ての経験を元に、
ママたち・パパたちの応援団をしています。

子どもは親を選んで生まれてくるようです。
そしてだれもに、生まれてきた理由があるみたいです。

尊い人生を心豊かに・・・丁寧に・・・

ウキウキワクワク・・・生きていきましょう。

~あなたに代わる あなたはいません~

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胎内記憶のリサーチをしています。 お子さまの胎内の記憶・誕生記憶・雲の上での記憶など・・・お話でも、お絵かきでも構いません。 是非、お気軽にご連絡ください。 luckyemi3580@yahoo.co.jp

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絆の風

日常生活に於いて通常起こることのすべては
空虚で無価値であると経験より学んでから
またわたしの欲望や恐怖の対象は
すべて精神がそれらの影響を受けない限り
それ自体は善でも悪でもないことを知ってから
わたしはついに決心した
真に善でひとに伝えうるものが
あるかどうか探究するのだと

        ~スピノザ「知性改善論」~




日が差してきたから、布団を干しておこうと
次女の部屋に入った。
大阪公演の演出助手の仕事のため、
先日からずっと出かけている。



ベッドの脇のコルクボードに貼られた紙が、風に揺れていた。


スピノザ・・・


・・・確かに・・・


人に伝えうるもの・・・



それが例え、血を分けた子どもであったとしても、
そんなもの・・・これっぽっちもないのかもしれない・・・。
それは単なる親のエゴなのかも知れない。




・・・それにしても、
やはり次女は、亡き母の母体でエネルギーをしっかり蓄え、
私を指導するために、私の元にやってきてくれたに違いない・・・。




大学を出てから、どうするのかと思いきや、
正々堂々とフリーターを名乗り、
ちゃんと自分のしたい仕事に向かい、
次々と仕事をゲットしている。


今回も、かなり著名な劇団の仕事を頂くことが出来たらしい。
きっと彼女のことだから、
立派に仕事をこなしていくことだろう。



誰よりも手を掛けなかった次女が

誰よりも賢く、
誰よりも早く、
私の元から旅立っていった。



日々の雑多な生活の中で、
夫の亡き妻への嫉妬は、次第に消えていった。
それどころか、
彼女のお陰で、育てたくても育てられなかった実母の、
その時の想いをようやく感じることが出来た。



何ひとつ親らしいことはできなかったけれど、
勝手にしがらんでばかりの、
真に嘆かわしい自分と
辛抱強く付き合ってきたことだけは、確かだと思う。




もっと自分に優しくあれば良かった。

そうしたら、きっとあの子も
もっと楽で・・・
もっと楽しかっただろう・・・。




部屋のカーテンが優しくなびいた。

まるで、娘の亡き母がそこに立って、
微笑んでいるようだった。






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接骨院の待合室で順番を待っていると、
中から、スタッフとお婆さんが何やら話しているのが聴こえてきた。
接骨院のスタッフは殆どが20代なのだが、
週に一度、スタッフは石巻にボランティアに行っているらしかった。

「みんな喜んでくれるんで、僕も嬉しくなって・・・」

そう出来ることではない・・・本当に立派だ・・・。

ぼんやりしていると、待合室に一羽の蝶が舞い込んできた。
まっ黄色の羽を広げた、モンキチョウだった。

入口のドアが開けっ放しになっていたからだ。
雑誌を読んでいた人も、マンガを読んでいた子どもも、
みな、そのモンキチョウに目をやった。

しばらくすると、視線を戻し、本を読み始めた。



そう言えば、あの日もそうだった・・・。

あの日・・・。
それは丁度二週間ほど前の連休のこと・・・。

長女とお墓参りに行った時のことだった。
以前からずっと気になっていたお墓参りだ。
それは、長女の父親である、別れた夫の両親のお墓だった。

3年ほど前、22年ぶりに再会した娘は、
実父と、たまにメールのやり取りをしていて、
ご両親のお墓は、新潟の長岡と聞いていた。

いずれはちゃんとご挨拶に行ってこなくては・・・
と思いつつ、延び延びになっていた。

でも、どうしたことか・・・
今年は何故か、娘がやけに乗り気になり、
連休には行かれるから!と
新幹線の切符まで取ってくれたのだった。

新幹線に乗ると、
「パパからきたメールだよ!
・・・でも、何だか、返事書けなかったよ・・・」

彼女は、養父である今の夫のことを「パパ」と呼び、
実父のことを「お父さん」と呼んでいる。

【 件名―どうですか? 】

二人で、件名を見るなり、爆笑した。

娘へのメールに、わざわざタイトルを書いていたことと、
「どうですか?」に、滲み出る娘への愛情を感じた。

でも・・・

【 お墓参りに行くとママから聞きました。
君が今あるのは、いろいろな人との繋がりなのだから、
大切にして、お墓にいろいろご報告してくると良いと思います。
新潟からは、ママとこっちに帰ってくるんでしょ?
久しぶりに会えるのを楽しみにしてるよ。 】


こんな風にメールを娘に送ってくれていたのか・・・。

全く知らなかった・・・。

久しぶりに会った娘との会話は、留まることを知らず
お互いに話し続けた。

ふと、窓の外を眺めると、
だんだん、近づいてきたみたいだった。
まだ雪が残っているのに、桜が満開で、
そのコントラストがとても絶妙だった。


とうとう、長岡駅に着いた。


お供えのお花やお線香を買うと、
娘が実父に聴いて教えてくれた住所に従って、
ふたりで とぼとぼと歩きだした。

15分ほど歩くと、そのお寺を見つけた。
浄土真宗だったんだ・・・。
今の夫の実家と同じだったんだ・・・と思った。

大きくて立派なお寺なのに、閑散としていた。
連休中に、お墓参りに来る人もいないのだろう。

「お父さんが世田谷の○○と住職さんに言ってくれれば、
教えてくれるよって、言ってたけど、
住職さん、今日はお出かけみたいだね。
これじゃ、どのお墓か解らないね・・・。

あ、でもお父さんがシャメ送ってくれたから、
これを見れば 解るかも!」

娘は、バッグから携帯電話を取り出すと
実父に送って貰っていたらしい写メールを私に見せた。

昨年の10月の日づけがそこにあった。

昨年、お墓参りに来たんだ・・・
これ・・・もしかして・・・

娘が実父に
「そのお墓にはどなたが眠っているの?」
とメールした。

すると、

「兄と両親と、両親のそのまた両親と・・・」

・・・そうだったんだ・・・。
お兄さん・・・亡くなってしまったんだ・・・。

娘が実父と再会した3年前は、
糖尿病によって、両足を切断した後、
脳梗塞になり、意識がなくて・・・という状態だった。


・・・そうだったんだ・・・。



「ママ!見つけたよ!このお墓だよ!
ほら、このアングルでお父さんシャメ撮ったんだよ!」

とても古びたお墓だった。
明治何年・・・と刻まれていた。

二人でお墓の掃除をし、
お花を飾り、お線香を焚いて、


そして


そこにしゃがんだ。


「大変ご無沙汰してしまい、申し訳ございませんでした。

○○家の嫁が務まらず・・・
本当に申し訳ございませんでした。

特に、娘のことは、とても可愛がって下さりましたのに・・・

どれ程、寂しい想いをさせてしまったことでしょう・・・。

○○さんにも、辛い思いをさせてしまいまして、
本当に申し訳ございませんでした。

その後、私は再婚し、そして
娘は、お陰さまで、もう26歳になりました。

これまでもずっとお見守り下さり、
本当にありがとうございます!

どうぞ、娘のことは、これまで通り、
見守ってやってください」


今度は、娘が、そこにしゃがんだ。

手と手を併せて、お参りしている娘は、
小さな頃の娘に戻っていった。

何をお話しているのだろう・・・。
おじいちゃん・・・おばあちゃんに
たくさんお話ししているようだった。


二人で、しばらくそこに立ちすくんだ。


すると、
そこにまっ黄色のモンキチョウが現れたのだ。


「あ、おばあちゃんだよ」

「モンシロチョウも来たよ。」

「おじいちゃんだ!」

私たちの歩く方に何故か、蝶はついてきた。

「お見送りしてくれてるんだね」

「ありがとう!って言ってるよ」


「いつかきっと、結婚が決まったら、また来ようね」

母と雪とこれからと(後)

我が家の子ども達は、みんなおせちが大好きなので、
手抜きができず、やっと殆ど出来上がりました!


来春は、息子の大学受験と、三女の中学進学があり、
とうとう就職をしないと決めたらしい演出家希望の次女は
来年の4月に家を出るらしく、今から夫に自分で、その話をするそうです。


・・・いろいろあります。
・・・それこそ、生きている証拠です。


今日は、大晦日。

長女も、自分のアパートからさっき帰ってきました。

6人の家族が揃いました。

毎年行われる母への黙とうがこれから、みんなで行われます。

今のこの家族も、いつまで揃うか解りません・・・
当り前ではない家族との団欒。

・・・今あるしあわせと、今ある家族を大切にしたいと思います。


さあ! 今から、鍋と年越し蕎麦を食べたら、来年の目標を描きます!
夢時間・・・自分と仲よく出来る唯一の楽しい時間です。

来年はMOTHER’S NETももっともっと充実していきます!

悩める母たちへ、家族の絆の結び直しと生きがいを応援し、
子どもも大人も心豊かに育ち合うことを目指します!

今年も一年、本当にお世話になりました!
来年もどうぞよろしくお願いいたします!

みなさまも、どうぞ佳き新年をお迎えくださいませ。

そして、みなさまにとりまして、素晴らしい年になりますよう、
心の底から お祈りしております!!!

2010.12.31.
                                 紅林 千賀子

母と雪とこれからと(前)

母と雪とこれからと(前)

昼間は温かでしたが、やはり夜になると、
冷えますね・・・・



そう言えば、6年前もそうでした・・・。

2004年12月31日 大晦日。
東京では珍しく、雪がしんしんと降っていた。
私は、母の入院先から、母の危篤の知らせを受け、病院に急いだ。

母と 二人。

暗黒の空から降り注ぐ雪が、
ペンキの剥げたブルーグレーの木の窓枠に積もっていくのを
私はただ見つめた。

雪を見ると、決まって母の着物姿を思い出した。
子どもの頃のある雪の日、
母が銀座にホステスの仕事に出かけるのを休んでくれたからだった。
いつも「バタン」という深夜に響くタクシーの音が、
子ども時分の私を安心させてくれる音となった。

母は、着けられた酸素器具を外そうとしたり、苦しがったりした。 
時には、意識が朦朧としているようにも見えた。

すると 突然、ベッドの上に座りだし、
「おかあちゃん! おかあちゃん! おちっこ・・・。」と母は、私の袖を掴んだ。

そして今度は、
《 どんぐりころころ どんぶりこ。 おいけにはまって さあ、たいへん。
どじょうが でてきて こんにちは。ぼっちゃん いっしょに あそびましょう。》
と、物凄いスピードで「どんぐりころころ」歌いだしたのだ!

 まるで、母の魂に埋め込まれていたビデオテープが、
急に巻き戻されたかのようだった。
子どもの頃、よく祖母と歌っていたのだろうか・・・。

 母は、子どもの頃へ帰っていったのだ。
これが、母のアカシックレコードなのかしら?!

この広い宇宙に、図書館ともいわれるアカシックレコードがあって、
人類すべての記憶が貯蔵されているというけれど、
将にこの「どんぐりころころ」を歌うこの速さは、
母の魂にあるそのビデオテープの巻き戻し?
と思ってもおかしくないほど神秘的な映像だった。
人の心の奥にある潜在意識と、片付けてしまうのは、あまりにも簡単すぎる。

静まり返った病室に響き渡る母の幼児語と、その速さの童謡は、
将に何かを意味していた。
母は、死を目前に、体という器に守られた魂の神秘を 
まるで女優のように演じながら、私に教えてくれているように思えてならなかった。

しばらくすると、雪が止んだ。
と同時に、時間も、そして母の演技も、そこで止まった。
 
窓から、外を見た。外は、大晦日。
どこの家もきっと新年を迎える最後の仕上げに、気ぜわしい頃だろう。

四回目の入院だった。
入院するという知らせを受けた二週間前、自宅から東京の実家に行ってみると、
いつやら美容院に行ったらしく母の髪は、綺麗にセットされていた。
・・・なんだ。大したことないんじゃない。

後から思えば、それは旅支度だった。

三年前に父が入院先の病院で肺炎になり、亡くなった時と全く同じだ。
またそのときのような順番で、あの世に逝こうというのだろうか・・・。
入院先の病院から危篤の知らせを受けたその時も、
生死を彷徨う父と、こうして二人でひと晩過ごした。

父の危篤の知らせを受けた二週間前、主治医の先生から、
父の様態が思わしくないという説明を受け、
大森駅の喫茶店で、ひとしきり泣いてから自宅に帰った。

自宅近くの信号を渡ろうとしたとき、ふと夜空を見上げた。
ひとつだけ大きく瞬いていた星を見たその時、
荒井由実の《朝陽の中で微笑んで》が過ぎった。
《 ・・・宇宙の片隅で巡り会えた歓びは、うたかたでも身をやつすよ・・・ 》
父との別れが近いのが、解った。

どこか、広い空の見える山のてっぺんに行って、ひと晩中空を見ていたい・・・。
それから三ヶ月して、父は帰らぬ人となった。



止まった時間と冷え切った病室の中で、母を見ながら、父を思い出していた。

すると、四人の子ども達と夫、そして私の二人の弟がやってきた。 
順番に母と話をした。 
意識を取り戻した母は、最初は嬉しそうに話していたが、
急に息が荒く、苦しそうになった。 
看護師さんと担当医師が処置に入った。  

すると今度は、急に母は両手を合わせ
「ありがとう。ありがとう。ありがとう・・・。」
と 言った後、般若心経を唱え始めた。 

私も、父の死の時と同様に
「ありがとう。ありがとう。ありがとう・・・。」
と 叫んだ。

母は、そうして、あの世へ逝った。
すべてが終わった。

母との長い長い闘いも終わった。

父の時と同じように、体中に着けられた管という管は、すべて取り除かれた。
母のその魂の抜け殻を、弟と実家へ運んだ。 
実家のリビングのテレビの近くに、母は横たわった。 
NHKの「紅白歌合戦」が、始まった。
 ・・・ああ、そうか・・・母はこれがしたかったんだ・・・
また、昔のように、子ども達とみんなで観たかったんだ・・・「紅白歌合戦」…。  
働き通しだった母が、年にたった一度だけ、ゆっくりテレビが観られる大晦日。
それは、私たち子ども達にとっても、ほっとできる唯一の日だった。

 父が亡くなって、ひとりでお正月を迎えたくない、
と毎年言っていた寂しがり屋の母が、最後にとった手段・・・
それが「死」という形だったのかもしれない。
 年が明け、三が日があけるのを待って、葬儀が執り行われた。 
火葬場で、母の姿が消えていくのをただ見つめた。

それにしても、どうして私は母と出会ったのであろうか。
どうして、あんな風に母は亡くなっていったのだろうか。
何より、両親との出会いの意味と母との関係を「因縁」と感じていた、
その意味が知りたかった。 
と同時に、私自身の人生の意味が知りたかった。

母が亡くなって、たった二週間した頃、私は、心の封印をぱったり閉じ、
遺伝子の研究で有名な村上和雄先生のお話を伺うことになった。

「遺伝子を解読することには成功したが、
それよりこの遺伝子を書いたのは、誰?と
考えたら 眠れなくなった・・・。」
と 笑いながら仰っていた村上和雄先生のお話を
食い入るように聞いていた。

両親がいなければ自分という存在はない。
でも、その両親にも両親がいて、その両親にも両親がいて、
その生命が長い間、繋がってきたからこそ、「自分」が存在する。
ひとつでもそれが欠けていたら「自分」という存在はありえないのだ。

 「世界は一つの生命からはじまった~サムシング・グレートからの贈りもの」(きこ書房)を出版された、村上和雄先生のお話は、
母を亡くしたばかりの私の細胞に染み渡るように入ってきた。
義母・父そして母を見送った十年間に及んだ歳月の中、
「死」によって「生きる」意義をずっと考え続けていたからだろうか・・・。



それから、6年間の歳月が流れた。
いろいろなことがあった。
いろいろな出会いがあった。
どれをとっても、なくてはならない必要な出来事であり、
必要な出会いであったと・・・しみじみ感じる。



今世での再会に乾杯!

昨夜『いのちの絆の物語』(池川明・澤谷鑛著)の出版のために
出版社の南方新社さんとのご縁を繋いでくださった、
波多野毅さんから、メールをいただきました。

波多野毅さんは、熊本小国町に「TAO塾」を創設され
http://www.taocomm.net/

寺子屋塾の仕事の傍ら、時に鍬、時にペンを持つ生活をしながら、
教育・健康・環境に関する様々なプロジェクトを推進しながら、
国内外の研修生を数多く受け入れていらっしゃるという
画期的な活動をされていらっしゃいます!

祖母さまのの死がきっかけで東洋医学・ホリスティック医学に興味を持ち、
東洋鍼灸専門学校にて鍼灸指圧の資格を取得され、
また、マクロビオティックも学んでおられます。

ところで、タオさん(波多野さん)からのメールは、何かと思いましたら、
妹さんが、西日本新聞の朝刊に載られたというのです!


2年位前のことでしたでしょうか・・・
若い頃から里親になることを希望しておられたという
妹さんのお話を伺った時には、本当に脱帽でした!


私みたいに、
・・・お腹を痛めた子でないと本当に愛せないのかしら・・・
なんて次元の低いことで悩んでいるのと、大違いです。

ところで、そのタオさんから頂いた、新聞のコピペをご紹介しますね!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

西日本新聞朝刊に別府に住む 妹の記事が掲載された。以下、新聞コピペ。

**********************************

どんな赤ちゃんなんだろう-。
福岡市に住んでいた主婦 北里聖子さん(46)が、
1歳になったばかりの翔太君(仮名)と初めて会ったのは
2009年3月、同市内の乳児院だった。

 床にちょこんと座っていた翔太君と目があった。
「この子は-」。聖子さんは確信めいた思いを抱いた。「うちの子になるわ」

 翔太君は福岡県内の病院で生まれた後、
家庭の事情で、そのまま乳児院に引き取られた。
先天的な脳の障害があり、左の手足にまひがあった。

 乳児院の記録には、リハビリが日々必要なこと、
知的な遅れが出るかもしれないことが書かれていた。
そして、笑顔がとびきりすてきなことも。

 聖子さんと、夫で臨床検査技師の謙二さん(51)は
養育里親として福岡市に登録。
市から紹介を受け、乳児院に通うようになった。
病気のときは付きっきりで看病し、ときには自宅に泊めて3カ月。
翔太君は北里家の子になった。

 保育士として、結婚前に自閉症の子を療育する施設などで
働いていた聖子さんは、新婚時代から里親を希望していた。

 「施設だと職員の異動や転職で子どもに接する期間がどうしても限定されてしまう。
子どもには長い間、愛情を注いでくれる心のよりどころとなる人が必要だ」。
そう実感してきたからだ。

 一方、謙二さんとの間に2人の男児にも恵まれた。
「自分の子と同じように愛せるか分からない」と、
里親に踏み切れなかった謙二さんだったが、
子どもの少年野球チームの指導を通じ、気持ちが変わった。
長男が高校に進んだ5年前、ついに聖子さんに同意した。

 翔太君の話が持ち上がった際、猛反対したのは
聖子さんの母、ミヨ子さん(72)だった。
「苦労するのは目に見えている」と説くミヨ子さんに、
聖子さんは感謝の言葉で答えた。
「幸せな家庭で多くの愛情を受け、なに不自由なく育ててくれてありがとう。
今度は私が恩返しをしたい」。ミヨ子さんもうなずいた。

 大学に進学していた長男は当初、「僕たちがいるのに」と帰省時に戸惑っていたが、
いつしか高校生の次男ともども、翔太君を抱っこしたり一緒に寝たりと、
本当の兄弟のようになっていた。
ミヨ子さんも「翔太君、ばあばよ―」と毎日、熊本県から電話してくる。

今年4月、謙二さんの転勤で一家は福岡市から大分県別府市に転居。
車いすが手放せなかった翔太君は、リハビリのかいもあって
自分の足でゆっくり歩けるようになった。
まひがある左手で物をつかんだり、じゃんけんをしたり…。

 障害による脳波の問題点も、北里家で過ごした1年半でかなり改善に向かい、
担当医師を驚かせているという。
来春から翔太君を受け入れてくれる幼稚園も、ようやく別府市内で見つかった。

11月下旬のある晴れた日。来年2月で3歳になる翔太君は
流れる雲を見上げ、聖子さんに話し掛けた。

 「お空で雲さんが泳いでるね」

「そうね、すごいね」。聖子さんは内心、
「この子はお兄ちゃんたちより賢いのでは」と驚きつつ、あらためて思った。

 「翔太君の天使のような笑顔が、
息子や母をはじめ、みんなの壁を取り去ってくれる。
あなたが来て、私たちもいっぱい幸せをもらっているのよ」 


=2010/12/09付 西日本新聞朝刊=


*****************************************************************


翔太君はきっと、雲を見上げながら、
お母さんや聖子さんの姿を見ていた頃のことを
思い出していたのでしょうね・・・。

聖子さん・・・将にそういうシナリオのお名前ですものね!

それにしても、身体に障碍があろうと・・・
「この子は-うちの子になるわ」。

聖子さんは確信めいた思いは、一体どこから来るのでしょう・・・。


昨夜、頂いたばかりの素敵なお話を早速主人にすると、

・・・とても俺には真似できんな・・・
・・・とはいえ、ほんのちょっぴりだけど、私たちも真似ごとをしてきたね・・・

子連れ再婚も20年経つとようやく、本当の家族です。
妹さんご家族も、きっと感じておられるように、
血のつながりを超えて、必然的だった前世からの繋がりを
特に、ここ最近、感じずにはいられなくなっておりました。

これは、本当に理屈ではないのです。
それに、どのようなあり方であっても、
家族って、本当に深い縁あって
奇跡的に結ばれた意味のあるカタチですものね・・・。


きっと聖子さんのご家族も、
ここまでの日々には、様々な葛藤があったことでしょう・・・。

でも・・・


「翔太君の天使のような笑顔が、息子や母をはじめ、
みんなの壁を取り去ってくれる。あなたが来て、
私たちもいっぱい幸せをもらっているのよ」


妹さんご家族・・・それぞれの今世での再会に、
心から祝福をあげたいと思いました。



乾杯!^^





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